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吉田武「虚数の情緒」

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吉田武「虚数の情緒」



数学の本です。ですがアツいです。

 さあ諸君、勉強を始めよう勉強を。数学に限らず、凡そ勉強なんてものは、何だって辛くて厳しい修行である。然し、それを乗り越えた時、自分でも驚く程の充実感と、学問そのものへの興味が湧き起こってくる。昔から、楽して得られるものなんて、詰まらないものに決まっている。怠けを誘う甘い言葉は、諸君に一人前になって貰いたくない、という嫉妬である。思い切り苦労して、一所懸命努力して、素晴らしいものを身につけようではないか。
 夢を見る事、現実を知る事。人生を意義あるものにするには、この二つの釣合を巧く取る必要がある。夢ばかり見ていては現実に取り残される。現実だけに縋りつけば味気ない。比率は年齢と共に変わっていく。諸君は、夢九割、現実一割で好いだろう。やがてそれが半分半分になり、最期には現実だけが残るのである。これは物理的に制限された「生」を持つ我々にとって、決して避けられない宿命である。ならば、夢を見よう。青年に相応しい夢を。


 教育というものは、本当に難しいもので、手持ちの百が半分も伝わればまだ好い方で、実際にはもっともっと比率は下がるのである。そこで、代を重ねるに従って、どんどん水準が下がっていく。期待するのは、師を超える弟子、所謂、突然変異しかなくなるのである。
 この意味で、本書は諦めに満ちている。そして、同時に突然変異への期待にも満ちているのである。既に崩れ去ってしまった世代から、何を言う権利も無いかもしれないが、諸君が周りの環境や流言蜚語に惑わされず、独立独歩の精神で新たなる途を切り開いてくれることを心から祈っている。その為には考えなければならない。自分の頭で、他人の干渉を許さない絶対の意志の下で。それには、基礎的な数学の訓練を受けておく必要がある。


 世の中が如何に変化しようと、青少年が一個の独立した人間として社会に出て行く為には、「読み書き算盤」が最低の必要条件である。これは古代シュメール、五千年前の大昔から少しも変わらない、正に時間と場所を超えた人類普遍の真理である。この意味で、数学と国語の教師は、他の科目の教師と異なる非常に特殊な立場にあると云えよう。責任の重さが違うのである。それは何も偉く見せようだとか、尊敬させようだとかいった極めて個人的で陰湿な感情からくるものでは決してない。国の将来、それを担う青年の生涯に関わる大問題だからである。
 他の科目は、後々で修正が効く。音楽に興味を持つ事、絵画に興味を持つ事、社会に、歴史に、経済に、そして外国文化に興味を持つ事は、人生のどの時期から始めても十分意義のある充実した経験が出来る。そういった知識や、情操に関わる部門は、大いに修正が効くのである
 然し、それとて言葉や簡単な計算に難儀するようでは、とても真っ当な理解など覚束ないであろう。「言葉」と「数」、「表現」と「論理」は、幼い時から、半ば強制的に経験させておかないと、或る程度の年齢を過ぎてからでは、理解の為の苦労が百倍千倍する。従って、これらに関わる教師は、途轍もない責任を負わされているのである。格好をつけたり、偉そうに見せよう、などという邪心を持っている暇など全く無いのである。国家の精神的な破壊は、これらの科目に関わる教師の敗北だ、と言っても決して過言ではないのだから。


 教育に携わる者にとって、最も重要な行為は「人の心に火を点ける」ことである。一旦、魂に「点火」すれば、後は止めても止まらない。自発的にその面白さの虜となって、途を極めていくであろう。それでは、どうすれば点火するのか、点火装置はどこにあるのか。それは「驚き」の中に在る。
 「驚き」を教える事は、何人にも出来ない。人が驚ける能力、これこそ天からの贈物である。この意味に於いて、子供は天才である。驚きを失った大人に点火する方法は無い、火種は尽きているのである。
 ところが、昨今、この掛け替えの無い「驚く能力」を磨滅させる行為が白昼堂々と行われている。徒に知識の量を増やし、何事にも「驚かない子供」を教育の名の下に大量生産している。これは明らかな犯罪行為である。
 知らないものは幸いである、まだ知る機会が、驚く愉しみが残されている。一度、知ってしまったものは、消し去れない。知ったかぶりの子供は、初生の赤子には戻れない。教育の役割は、人が初めてそれを知る時、最大限の驚きが得られるように充分な配慮をすることであって、自動車レースのピット作業の如く、一刻を争って燃料補給をする事ではない、好奇心に溢れた「百歳の少年」を生み出す事であって、訳知り顔の「十歳の老人」を生み出す事ではない。
 幾ら知識を増やした所で、百科事典を何十冊も内蔵し、原価僅か数十円のCD-ROMに勝てる筈がない。今や「生き字引」とは、自らはその中に唯の一行をも書き加えるものを持たない人間の蔑称であろう。
 携帯電話よりは糸電話が、TVゲームよりは折り紙が、インターネットよりは紙芝居が、英語よりは敬語が、優先されるべき年齢がある、学ぶにふさわしい年齢がある。その年齢を見誤らない事が、教育の鍵である。
 キーボードに齧りついている子供よりも、野山を駆け、紙飛行機に興じ、振子に驚く子供に未来を感じる。赤子の様に驚く能力は、自分自身で考える事、ひたすら考え続ける事、それのみに因って維持されるのである。知識に溺れる者は、考える事を放棄するものである。人類が驚きを失った時、すべての精神活動が終りを告げ、珍種の動物として記録されるに留まる存在になるだろう。
 実際、我々はそんなに多くの知識を蓄える必要があるのだろうか。そこで、著者は、一つの事をじっくりと学んでいると、“知らず識らずのうちに”色々な知識が増えたり、それまでは全く興味の湧かなかった分野に親近感を持てたりする様な、科目の枠を超えた著作は無いものか、と考えた。中学生から読めて、かといって、決して誤魔化したり、易きに逃げたりせず、人間の知の全体を一望し得る著作は無いものか。これから、学問を学び、スポーツを愛し、人生を楽しむ為に必要となる様々な事柄を、綺麗事で終わらせずに真剣に語り、読者と一緒になって考え、読後には何かしら自分の目標と呼べるものが見つかったり、或いは、「志」と呼ぶに相応しい熱い感情が全身に漲ってくる、そんな著作は無いものか。
 この様な大それたことを考えながら、本書の執筆は始められた。勿論、ここで掲げた目標が、十分に達成された等とは毛ほども思ってはいない。唯、教育界、出版界に、この種の問題を提起したいのである。そして今後、上記した点を満たした、読んで面白く、然も学問の枠にこだわらない、初学者向きの分の厚い本が、我が国でも出版される、その一つの切っ掛けにでもなれば好い。著者はそれだけで満願成就なのである。


 世の中のあらゆるものに「正解」が存在する、と著者は信じている。正しい構成、正しい文章、正しい表現、一文一文にこの他には決して表現しようがない絶対的な正解が存在する。凡そ人間のする事に、完全な答えなど存在し得る筈がないと知りながらも尚、それが存在すると一途に追い求める。そうした矛盾に堪える事のみが、自分を鍛え、表現を磨いてくれる、そう信じているのである。その結果、少しでも好い作品が書けるように成るのではないか、そう考えて出来る限りの工夫をしている。若し、「正解」を御存知の方がいらっしゃれば御教授頂きたい。
 本書が、出版界に対する一つの挑戦として、好意的に受け入れられるように祈っている。何故なら、著者は本書自体の成功よりも、本書のスタイルの一般化を心から願っているからである。その為には、後続部隊が必要である。読者の温かい励まし以外に、後に続く著者の執筆意欲を掻き立てるものは他に無い。著者、最高の夢は、それが本書の読者の中から生れる事である。
(以上、[巻頭言」より)


まえがきだけでこの熱さですよ。引用してるだけで血中温度が上がってきた。なにこの昨日の敦とのギャップ。
でも実は私、この本買って十数年経つけど、未だに読了してないんです……。だって分厚いんだもの。
でも、決めた。今度こそ最後まで読んでやる! そして賢い人間になるんだ!

一応中学生向けの本という事になってるので大人な方はこちらをどうぞ
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40代鬱病フリーの翻訳家が、ゲームを作る妄想をしたり弱音を吐いたりします。

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