フはフラグメンツのフ
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春だった。一面に名もなき花の咲き乱れた花野に、兵介は立っていた。眼が異様だった。兵介にはその花野が、屍で埋まった高原郷の村と映った。赤は血であり、白は女の肌だった。そして緑は屍体すべての顔色である。
「わッ」
凄まじい叫喚が、兵介の咽喉から発せられ、次の瞬間、兵介は花野の中に倒れ、指で土をかきむしっていた。
「わっ。わっ。わっ」
指は花をむしり、草をひき抜き、土をえぐった。花が、葉が、土が虚空に散乱する。それが悉く屍体の腕に、首に、臓腑に映った。
新次郎は無言で凝視している。彼には、兵介の見ている物が見えない。だが推測はついた。このまま狂うかもしれぬ、とも思った。それでも動かなかった。狂気もまた一個の救いであることを、新次郎は知っている。それで救われるのなら……やむをえないと思っていたのだ。
四半刻も兵介の狂態は続いた。
やがておとなしくなった。
死んだように倒れて、また四半刻が過ぎた。
不意に口が動いた。
「修羅だったよ」
新次郎は兵介のそばに曲がった腰をおろした。
「あれは、まったくこの世の修羅だったよ、おやじ」
噎ぶように兵介が云った。
「分っている」
「分ってるって。おやじに分っているって」
兵介ははね起きて云った。野獣の素早さであり、激しい怒りの眼だった。
「嘘だッ」
「嘘じゃない。おれも見たよ」
「嘘だッ。おやじは生きてるじゃないかッ」
「それは……」
新次郎は憐れむように兵介を見た。
「おれはその中にいたからさ」
「なんだって」
「死人の中にだよ。おれは倒れて、死人の中にいたんだ。大方、死人と変りはなかった」
「…………」
「腰をくだかれてね、身動きひとつ出来なかった。お前のように、立って見おろしていたんじゃなかった」
兵介が妙な声を出したと思ったら、泣きだした。高原郷で遂に訪れてくれることのなかった涙が、今、兵介の頬をさめざめと濡らしている。
「おれはその時、修羅の中にいるとは思わなかった」
暫くの無言の後に、新次郎がぽつんと云った。
兵介が新次郎を見上げた。新次郎の目は虚空を見ている。
「おれはね、まさしく仏たちの中にいたよ」
長い沈黙があった。
「だから生きてるんだろうな、今でも」
新次郎の声はききとれないほど幽かだった。
(「柳生刺客状」より)
そのフェンスに、ぼくらは顔をぎゅっと押しつけ、爆風が温かくなるのを感じると、そのフェンスにじっとかじりついたまま、自分たちがどこのだれそれだということなど忘れ、ひょっとしたら自分だってあんな人物になれるかもしれないとか、あんなところへ行けるかもしれないとか、そんなあこがれにふけったものだった……。
それでもぼくらは男の子で、男の子だということが気に入っていたし、フロリダのある町に住んでいて、その町も好きだったし、学校にかよっていて、その学校もかなり好きだったし、木登りやフットボールをやり、お母さんやお父さんが好きだったものだ……。
でも、毎週、あるきまった時間には、いつも、ほんのしばらくのあいだでも、ぼくらは、火や星のことや、彼らが待っているあのフェンスの向こうのことを考えたものだ……ぼくらは宇宙船のほうがもっと好きだった。
(「ウ」は宇宙船の略号さ」より)
さあ諸君、勉強を始めよう勉強を。数学に限らず、凡そ勉強なんてものは、何だって辛くて厳しい修行である。然し、それを乗り越えた時、自分でも驚く程の充実感と、学問そのものへの興味が湧き起こってくる。昔から、楽して得られるものなんて、詰まらないものに決まっている。怠けを誘う甘い言葉は、諸君に一人前になって貰いたくない、という嫉妬である。思い切り苦労して、一所懸命努力して、素晴らしいものを身につけようではないか。
夢を見る事、現実を知る事。人生を意義あるものにするには、この二つの釣合を巧く取る必要がある。夢ばかり見ていては現実に取り残される。現実だけに縋りつけば味気ない。比率は年齢と共に変わっていく。諸君は、夢九割、現実一割で好いだろう。やがてそれが半分半分になり、最期には現実だけが残るのである。これは物理的に制限された「生」を持つ我々にとって、決して避けられない宿命である。ならば、夢を見よう。青年に相応しい夢を。
教育というものは、本当に難しいもので、手持ちの百が半分も伝わればまだ好い方で、実際にはもっともっと比率は下がるのである。そこで、代を重ねるに従って、どんどん水準が下がっていく。期待するのは、師を超える弟子、所謂、突然変異しかなくなるのである。
この意味で、本書は諦めに満ちている。そして、同時に突然変異への期待にも満ちているのである。既に崩れ去ってしまった世代から、何を言う権利も無いかもしれないが、諸君が周りの環境や流言蜚語に惑わされず、独立独歩の精神で新たなる途を切り開いてくれることを心から祈っている。その為には考えなければならない。自分の頭で、他人の干渉を許さない絶対の意志の下で。それには、基礎的な数学の訓練を受けておく必要がある。
世の中が如何に変化しようと、青少年が一個の独立した人間として社会に出て行く為には、「読み書き算盤」が最低の必要条件である。これは古代シュメール、五千年前の大昔から少しも変わらない、正に時間と場所を超えた人類普遍の真理である。この意味で、数学と国語の教師は、他の科目の教師と異なる非常に特殊な立場にあると云えよう。責任の重さが違うのである。それは何も偉く見せようだとか、尊敬させようだとかいった極めて個人的で陰湿な感情からくるものでは決してない。国の将来、それを担う青年の生涯に関わる大問題だからである。
他の科目は、後々で修正が効く。音楽に興味を持つ事、絵画に興味を持つ事、社会に、歴史に、経済に、そして外国文化に興味を持つ事は、人生のどの時期から始めても十分意義のある充実した経験が出来る。そういった知識や、情操に関わる部門は、大いに修正が効くのである
然し、それとて言葉や簡単な計算に難儀するようでは、とても真っ当な理解など覚束ないであろう。「言葉」と「数」、「表現」と「論理」は、幼い時から、半ば強制的に経験させておかないと、或る程度の年齢を過ぎてからでは、理解の為の苦労が百倍千倍する。従って、これらに関わる教師は、途轍もない責任を負わされているのである。格好をつけたり、偉そうに見せよう、などという邪心を持っている暇など全く無いのである。国家の精神的な破壊は、これらの科目に関わる教師の敗北だ、と言っても決して過言ではないのだから。
教育に携わる者にとって、最も重要な行為は「人の心に火を点ける」ことである。一旦、魂に「点火」すれば、後は止めても止まらない。自発的にその面白さの虜となって、途を極めていくであろう。それでは、どうすれば点火するのか、点火装置はどこにあるのか。それは「驚き」の中に在る。
「驚き」を教える事は、何人にも出来ない。人が驚ける能力、これこそ天からの贈物である。この意味に於いて、子供は天才である。驚きを失った大人に点火する方法は無い、火種は尽きているのである。
ところが、昨今、この掛け替えの無い「驚く能力」を磨滅させる行為が白昼堂々と行われている。徒に知識の量を増やし、何事にも「驚かない子供」を教育の名の下に大量生産している。これは明らかな犯罪行為である。
知らないものは幸いである、まだ知る機会が、驚く愉しみが残されている。一度、知ってしまったものは、消し去れない。知ったかぶりの子供は、初生の赤子には戻れない。教育の役割は、人が初めてそれを知る時、最大限の驚きが得られるように充分な配慮をすることであって、自動車レースのピット作業の如く、一刻を争って燃料補給をする事ではない、好奇心に溢れた「百歳の少年」を生み出す事であって、訳知り顔の「十歳の老人」を生み出す事ではない。
幾ら知識を増やした所で、百科事典を何十冊も内蔵し、原価僅か数十円のCD-ROMに勝てる筈がない。今や「生き字引」とは、自らはその中に唯の一行をも書き加えるものを持たない人間の蔑称であろう。
携帯電話よりは糸電話が、TVゲームよりは折り紙が、インターネットよりは紙芝居が、英語よりは敬語が、優先されるべき年齢がある、学ぶにふさわしい年齢がある。その年齢を見誤らない事が、教育の鍵である。
キーボードに齧りついている子供よりも、野山を駆け、紙飛行機に興じ、振子に驚く子供に未来を感じる。赤子の様に驚く能力は、自分自身で考える事、ひたすら考え続ける事、それのみに因って維持されるのである。知識に溺れる者は、考える事を放棄するものである。人類が驚きを失った時、すべての精神活動が終りを告げ、珍種の動物として記録されるに留まる存在になるだろう。
実際、我々はそんなに多くの知識を蓄える必要があるのだろうか。そこで、著者は、一つの事をじっくりと学んでいると、“知らず識らずのうちに”色々な知識が増えたり、それまでは全く興味の湧かなかった分野に親近感を持てたりする様な、科目の枠を超えた著作は無いものか、と考えた。中学生から読めて、かといって、決して誤魔化したり、易きに逃げたりせず、人間の知の全体を一望し得る著作は無いものか。これから、学問を学び、スポーツを愛し、人生を楽しむ為に必要となる様々な事柄を、綺麗事で終わらせずに真剣に語り、読者と一緒になって考え、読後には何かしら自分の目標と呼べるものが見つかったり、或いは、「志」と呼ぶに相応しい熱い感情が全身に漲ってくる、そんな著作は無いものか。
この様な大それたことを考えながら、本書の執筆は始められた。勿論、ここで掲げた目標が、十分に達成された等とは毛ほども思ってはいない。唯、教育界、出版界に、この種の問題を提起したいのである。そして今後、上記した点を満たした、読んで面白く、然も学問の枠にこだわらない、初学者向きの分の厚い本が、我が国でも出版される、その一つの切っ掛けにでもなれば好い。著者はそれだけで満願成就なのである。
世の中のあらゆるものに「正解」が存在する、と著者は信じている。正しい構成、正しい文章、正しい表現、一文一文にこの他には決して表現しようがない絶対的な正解が存在する。凡そ人間のする事に、完全な答えなど存在し得る筈がないと知りながらも尚、それが存在すると一途に追い求める。そうした矛盾に堪える事のみが、自分を鍛え、表現を磨いてくれる、そう信じているのである。その結果、少しでも好い作品が書けるように成るのではないか、そう考えて出来る限りの工夫をしている。若し、「正解」を御存知の方がいらっしゃれば御教授頂きたい。
本書が、出版界に対する一つの挑戦として、好意的に受け入れられるように祈っている。何故なら、著者は本書自体の成功よりも、本書のスタイルの一般化を心から願っているからである。その為には、後続部隊が必要である。読者の温かい励まし以外に、後に続く著者の執筆意欲を掻き立てるものは他に無い。著者、最高の夢は、それが本書の読者の中から生れる事である。
(以上、[巻頭言」より)
考えてみれば、大体、今までの生き方が、まあ何という無意味な生き方だったか。精神の統一集注を妨げることにばかり費やされた半生といってもいい。とにかく私は自分を眠らせ、自分の持っているものを打消すことにばかり力を尽くして来たようなものだ。
かつて自分にも多少は感覚の良さがあった時分には、私はそれにのみ奔ることを惧れて、自分の欲しもしない・無味な概念のかたまりを考えることによって感覚を鈍くしようと努めた。そうして、結局すべての概念が灰色だと知った時、また、自分が苦心の結果取除くことに成功したところのものが、いかに黄金なす緑色をなしていたかを悟った時には、すでにそれを取返す術を失っているのだ。私がかつて、かなり確かな記憶力を有っていた頃、私はこれを軽蔑した。記憶力しか有っていない人間は、足し算しか出来ない人間と同じだと云い、自分のこの力を撲滅しようとした。これは随分無理なことだった。で、少くとも、これを利用することだけは避けるようにした。さて、人間生活の多くの貴い部分が、最も基礎的な意味において精神のこの能力に負うていることを、身をもって悟るようになった今となっては、はや(種々の薬品の過度の吸入や服用その他によって)自分にそれが失われているのだ。
今でもそうだが、以前から私は、夜、床に就いてから容易に睡れない。これは主に、この十年間一晩として服用しないでは済まない喘息の鎮静剤のせいなのだが、結局睡眠の時間は二時間か三時間位のもので、かえって、昼間は一日中ボウッとしている。床に就いてから目が冴えてくるのに、私はそれでも無理に眠らなければいけないと考えて、恐らく私の一日中で一番頭のはっきりしているに違いない数時間を、眠ろうとする消極的な下らぬ努力のために費やしてしまう。本当はそういう時こそ、色々な思想の萌芽といってもいいようなものが、どんどん湧いてくるような気がするのだ。しかし、そんなものについて思想を集注し出したら一晩中興奮のために眠れないぞ、そうするとまた、明日は発作だぞ、と、私は躍起になって、そうした断片的な思惟の芽を揉み消して行く。全く私はどれほどの多くの思索の種子を寝床の闇の中でむざむざとにじり潰してしまったことか。もちろん、私は思想家でも科学者でもないから、私のひょいひょいと浮かんで来る思いつきや断片的な考えが皆優れたものだったろうなどというのではない。けれども初めはごく詰まらないものであっても、後の発展によっては、案外面白いものとなり得ることがあるのは、物質界でも精神界でもしばしば見られるのだ。闇の中で私に惨殺された無数の思いつき(それらは、高く風に飛ぶ無数の蒲公英の種子のように、闇の中に舞い散って、再び帰って来ない)の中には、そうした類のものだって多少は交じっていたろうと考えるのは、自惚に過ぎるだろうか?
さて、数年の間こうして、私の精神が溌剌として来ようとする時には、それを眠らせようと力め、それが眠く朦朧としている時にのみ、それを働かせようとした。いや、精神をば全然働かせまいと力めたのだ。(何のために? 身体のために。それで身体はよくなったか? どうして、どうして。少しもよくなんかなりはしない)私はこの馬鹿げた企てに成功した。本当の睡眠も本当の覚醒も私からは失われた。私の精神はもはや再び働く力を失い、完全に眠り・沈み・腐った。精神の缶詰、腐った缶詰。木乃伊、化石。
これ以上完全な輝かしい成功があろうか。
(「かめれおん日記」より)